レスパイトを使って結婚式に参列

11月21日 受け入れ

自宅介護を行っていると家族の冠婚葬祭でも参加が難しくなります。

そんな中、昨年から予定していた従弟の結婚式が11月23日に長崎県で予定通り行われる事となりました。

こちらも色々と準備をする時間が取れたので、自宅から近い市立病院にレスパイトを打診する事が出来、心置きなく参加する事が出来ました。

受け入れ1週間前。風邪やインフルエンザを警戒して人の出入りを制限する為に訪問入浴もキャンセルして、清拭とベット洗髪で対応していました。

受け入れ当日。発熱を起こす事もなく、午前中には無事に受け入れ手続きを完了する事が出来ました。

妻の着替えや洗面道具以外に自宅でも使用している不随意運動を抑える拘束具と手とベットの柵の間に入れるクッション、足がモゾモゾして踵が擦れない様に浮かせるクッションも持ち込み引き渡しも完了した。

リクエストを出すのを忘れていたので、割り当てベットは廊下側だったのでラジオを上手く受信する事が出来ませんでした。WiFiの整備が進むとradikoが使える様になるので、ありがたいんだけどなぁ。

ここに置いてどこに行くの?睨む嫁っち

11月22日 

仕事が終わって妻の様子を見に行きました。

特別問題はなさそうでしたが、注入などの細かい調整を行い1時間位で帰宅しました。前日同様、帰る間際に睨まれていましたが、笑顔で手を振って振り切りました。

11月23日

朝4時起床。出発時間は6時でしたが、この日は約7時間のバス移動を経てそのまま式に出席を行う予定だったので、礼服のズボンとワイシャツは着用して合流場所へ移動しました。

妻と一緒に旅行やドライブを行う癖がついている為、荷物を減らすスキルが著しく低下している事に気付かされました。男性1名の1泊旅行でなぜ、コロコロの旅行カバンとパンパンのリュックサック1つの荷物になるのか今でも分かりません。

親類を順路に沿ってピックアップして行き、九州道に上がりました。合流のバタバタも特に無く、順調に北上をする事が出来ました。

福岡県の山川PAで何度目かトイレ休憩を行い、出発して暫くすると車の流れが悪くなり、とうとう止まってしまいました。

かなり前まで渋滞が続いている様なので、スマホで渋滞情報を確認すると数キロ先に事故のマークが付けられていましたが、後方からパトカーや救急車が路肩から抜いて行き、これから事故対応が始まる様でした。

運よく3台前にインターチェンジがあったので、そこから高速を降り地道で移動する事になりました。(落ち着いてから調べてみると、車3台の事故だったらしく死亡者は居なかったものの1時間以上通行止めだったそうです)

死亡者が居なくて本当に良かった

運転手さんの機転と同乗していた運送業の親類のお陰で、ほぼ予定通りに会場入りをする事が出来ました。

挙式は本格的なチャペルから始まり、双方の友人知人が盛大に盛り上げてくれ、親族交流に専念出来るとても良い物でした。

個人的にはシャンパンの間に頂いた長崎名物『チリンチリンアイス』の屋台の記憶と、大学友人らの余興の記憶しかありません。

式が終了すると宿泊予定のホテルにタクシーで移動したのですが、道中やたらとパトカーが目に付きました。運転手に聞くと数日前からローマ教皇訪日に備えて警戒は始まっていると言う事でした。幸いにも、宿泊するホテルが面している道路は交通規制の対象外と言う事だったので安心しました。

ホテル到着後に親族だけの軽い打ち上げを行い、翌日に備えて就寝する事にしました。数十年振りの親父と2人部屋。これが1番気を使ったかも知れません。

11月24日

早朝5時に起床し、親父を起こさない様に着替えて外出。

散歩を兼ねて早朝礼拝を行っている教会まで散策。ここでも警察官やパトカーが巡回を行っていて、怪しい行動を控えようとする行動が怪しさを醸し出していました。

8時過ぎにホテルに戻り朝食を終えてから、9時30分出発前に希望者だけのグラバー園散策に出掛けました。

ホテルを出る前から降り始めていた雨は段々と雨足が強くなり、雷も鳴り出しました。そんな中、遅れていた親父からひと言。「バス運転手から連絡があって、バスが故障したらしい」。

取りあえずみんなには散策を続けて貰い、親父と数名だけは先にホテルに戻り、バスに置いていた荷物の受け渡しを行いました。

10時に連絡があり、12時30分に地元バス会社が迎えに来てくれるのでそのバスで島原市雲仙まで移動し、そこから高速フェリーで熊本に渡り、当初手配していたバスに乗り換えると言う予定に変更されました。

この時、ため息をついた大多数の中でドラクエウォークをプレイしている私を含めた少数が、『お土産アイテム』がゲット出来るかもとガッツポーズをしたのは秘密です。

結局、お昼に来てくれたバスに荷物を詰め込んでフェリー乗り場に移動。そのバスは私たちと一緒に乗船しないという事で、手荷物としてフェリーに乗船させて頂きました。

船内も綺麗でした

乗船中は各々ゆっくり過ごす事が出来、バスに手荷物を移す際にも大きなトラブルは起きませんでした。流石に、帰りのバスの中は寝息しか聞こえませんでしたが。

遅めの昼食にみんながうどんやラーメンを食べている中、私だけはレアステーキを食べて元気をチャージさせて貰いました。

真っ暗になってから自宅に戻ってきましたが、妻の顔だけは見てきました。

受け入れをして頂いた時と同じ介護浴衣を着ていたので、様子を見に来られた看護師さんにチクッと確認をして帰って来ました。

また、改めて迎えに来るので待っていて下さい。

心の声

・結婚式の部分、少なくない?。

・お酒は沢山呑めた。

・船旅は久々。気持ち良かった。

・雲仙のお土産アイテムはゲット出来ず。だけど、グラバー園はちゃっかりゲット。

インフルエンザが怖い

レスパイトを目前に

多くの被害をもたらした台風が空気を大きく攪拌して、一気に秋冬の色合いが濃くなって来ました。

同時に、と言うより今年は少し早い段階からインフルエンザが流行の兆しがあると聞こえて来ました。

管轄の保健所でも患者を確認し始め、警戒を強めているようです。

今週末の土日には、私の従兄弟が長崎県で挙式を挙げる予定になっています。そうなると自宅介護を行う人間が居なくなります。

安心して参列する為、妻の地元の病院に見守り入院【レスパイト】をお願いする事になっています。

そこで、今からレスパイトまでの間に1番注意をしなければならないのが、インフルエンザです。

陽性なら受け入れ不可

麻疹などの院内感染のリスクが高い病気もそうですが、基本的には発症後はレスパイトと言う形では受け入れが出来ません。

また、今回お願いしている病院は、終末医療も兼ねた平均年齢が高い所になるので尚さら対応が難しくなります。

そこで、入院前日に予定されていた訪問入浴は中止して頂き、家族の往来も制限しました。

いつもより早く加湿器と空気清浄機を稼働させて、厳戒体勢になっています。

今年は息子夫婦にも息子が産まれ、今まで以上に注意しています。

レスパイトの後には

レスパイトの受け入れが21日で、退院が26日。

その週の29日からは、大学病院で全身麻酔を使用した歯科の全体治療を予定しています。

バタバタしていてなかなか落ち着きませんが、無事に年越しを迎える為にはやむを得ないと『私は』思っています。

果たして、何度も移乗&移動させられる妻はどう思っている事やら。

心の声

・私は使いにくかったパットを持参予定。

・既にチューブと薬、歯ブラシ以外は準備完了。

・勿論、自前の拘束具も持ち込む。

山口~広島旅行

連れ回しの刑

妻のハンチントン病が進行して、数年前から車いすでの移動を余儀なくなりました。

そんな状態になっても、体調次第ではなるべく外出やドライブに行くようにしています。

そんな中で以前、山口県と広島県に遊びに行きました。

山口県

休憩をしながらまず立ち寄ったのは、山口県の『 角 島 』。

CMなどでも使われている本州から離島に伸びた一本道。もう少し天気が良ければ良かったのですが、十分綺麗でした。但し、海の中を突っ切るので風が強い日は注意が必要かも。

次に訪れたのは、『いろり山賊』さん。

山の中に突然現れるお城の様なお店で、写真の装飾は特別な物ではなく通常営業なので、他のお店と見間違う事はありません。

本来であれば、屋外にも設置してあるコタツ席でお食事を取りたかったのですが、車いすではコタツに入れないので持ち帰りの『山賊弁当』を車内で頂きました。

広島県

ホテルの確保が難しかったので、車の後ろにマットを引いて車中泊で一泊。

翌朝は、まだ朝もやが出ているうちから動き出してフェリー乗り場へと移動しました。

目的地は、広島県の『厳島(宮島)』。

車を駐車場に預けて、車いすに乗った妻と一緒に朝一番のフェリーに乗船して島に渡りました。

タラップや船内も段差が無い通路が確保されていてとても快適に過ごす事が出来ました。

島に渡ると至る所に鹿が徘徊していて少し怖かったですが、人に慣れているのでお互い良い距離感で過ごす事が出来ました。

下船して良いタイミングで陽が差し込んで来たので、色鮮やかな大鳥居を見る事が出来ました。

厳島神社内はスロープが設置してあり、妻と一緒に中まで拝観する事が出来ました。個人的には能が奉納される舞台の床が台風などで破損しない様に造られている辺りにニヤリとしてしまいます。

朝一番の船だったので殆どのお店が開店前でしたが、島を一回りする頃には開店し始めていました。

その中でも特にお目当てだった牡蠣を頂きましたが、本当に美味しかったです。写真のセットをおかわりするぐらい美味しかったです。

最後にもう少し足を伸ばして、広島県呉市の『大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)』にもお邪魔しました。

展示品は実寸の物が多く、その迫力に圧倒されてしまいました。

大和の10分の1模型などは隣で観られている人と比較して頂くとその大きさが分ると思います。

また、宇宙戦艦ヤマトの作者:松本零士先生の作品も展示されていて感動しました。妻は、初めて見るアナライザーに興味津々だった様です。

個人的に気持ちが入ってしまった展示品は、特攻兵器:人間魚雷『 回 天 』でした。この極秘訓練基地が実家のそばの海にもあったそうで、その無謀な作戦と常軌を逸した訓練で多くの尊い命が失われたそうです。

見終えてから外に出ると目の前に実物の潜水艦が展示されている『てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)』が見えていたので勿論、そちらにもお邪魔しました。

・・・ここで当時のデジカメの電池が切れてしまいました。

なんだかんだで、楽しく帰宅しました。おしまい。

心の声

・どこかでもう一度、写真の整理をしておかないとメチャクチャだな。

・いろり山賊のコタツ。雪が降っても利用出来るのかな?

・アナライザーの写真って、掲載しても大丈夫なんかな??

子供について~子供を弔って思う事~

感傷に浸る暇も無く

点滴を続けながらも眠りに着いた妻を残し、分娩室を出て看護師さんと事務員さんと今後についてお話しを行った。

事務手続きとしては、死亡届けと火葬許可が下りた後で無いと亡骸の引き渡しは出来ない事。引き渡しの際には亡骸を納める箱が必要である事。そして、病院としては直接関与する事ではないが、ご供養をされるのであればそちらも平行して段取りをされた方が良い事を教えて頂いた。

まず、亡骸を納める箱は既に段取りしていたので問題は無かった。

次に、届け出を行う為に市役所に行かなければならなかったのでその場を両家の親に託して動こうとした所を制された。

気が動転している状態で運転をするのは危ないと言う事で、道に不慣れだが私の父が運転をする事になった。

段取りの確認を行っている間に妻が病室に戻って来た。目は開いていたので、「秋人を迎える準備をしてくるね」と声を掛け、私の母と義父に妻を託して父と病院を後にした。

車で片道1時間。特に話らしい話をする事もなく、借家に着いた。大家さんに現状を伝え、申請に必要な物を確認して市役所へ向かった。

折角なので

市役所へ出発する前にも大家さんに声を掛けた。

用件は、葬祭場関係の知り合いが居ないかと言う事。流石に居ないかなとダメ元だったのだが、携帯を取り出してどこかへ電話を掛け始めた。そして、ものの数分で斎場を抑える事が出来た。本当に心強かった。

但し、問題になったのが送り出す為の宗教だった。

私たちは当たり前過ぎて何とも思って居なかったが、私たちが住んでいる県は日本神話が色濃く残る地域で、結婚式やお祭り以外でも民間神道が一般的な地域だ。通夜から葬儀、一年忌・三回忌・・・に至る事もお寺ではなく神主さんを呼んで神事として行っていた。

大家さんに、その様な事をしてくれる神社を知らないかとお尋ねをしたが、その様な葬儀には参列した事が無いので判らないと言う回答だった。

市役所に行く途中に葬祭場があったので、立ち寄ってその件もご相談をさせて頂いた。葬祭場の方もその様な送り方はした事が無いと言う回答だったので、自分たちで段取りを行う事にして手続き後の受け入れをお願いした。

市役所に着き、父には休んで貰う為に車内に残した。

手続きを始めてまず驚いた事は、死産届けを出す為にまず出産届けを提出しなければならない事だった。名前や出生を確定する為には必要な事なのだろうが、一連の流れの中でこれが一番イラっとしたかも知れない。

後は指示されるままに書類を記入して行き、無事に手続きが完了した。

心穏やかに

病院に戻り、看護師さんに書類を確認して頂いて問題が無かったので、妻の状態次第で引き取る事になった。

妻の強い要望で状態が安定している事を確認して丸2日の入院で退院する事になった。見送りが終わった時点で、病状ケアを含めた再入院を行う事が前提だったが。

預けていた小さな箱に息子を納めて頂き、返却して頂いた。お渡しした時より気持ち軽くなっていた事が逆に居たたまれない気持ちになったが、酔うといけないので箱をお腹で押さえて手の震えを止めていた。

一度借家に寄り、大家さんにご報告をした。出発前同様、妻を温かく抱きしめてくれた。

息子が納まっている箱を持ちながら一部屋一部屋説明をして、2人で寝ているベットに腰かけてた風景を見せてから借家を後にした。

斎場には大家さんから連絡をお願いしていたので、私たちが到着する時にはスタッフの方がお出迎えをして頂けた。

先に神事だとお伝えしていたので、調べてくれていて小さな祭壇を用意して頂いていた。

小さいと言っても立派な祭壇

神主さんは、私が仕事で懇意にして頂いていた八幡宮の方に無理を承知でお願いをした。式の流れは父と義父が説明を行い、その間に母が供え物を用意していてくれた。

式を行う前に、皆で秋人を一目見る事にした。気丈に振る舞っていた小さい、本当に小さい息子を見て妻も涙を流しながら別れを告げていた。

息子:秋人に玉串奉奠(玉串をお供えする事)を経て、自分たちの車だけで火葬場へ出棺を行った。

皆様のご厚意で

火葬場まで足を運んで頂いた神主さんに再度お祓いをして頂いて、人生で初めて窯の火を入れた。

火葬場の受け入れを担当して頂いた方は、ホテルの利用者でとても驚いて居られたのが印象的だった。事情を話すと「頑張ってみる」と言って、事務所に戻って行かれた。

大人の方よりか短い火入れを終えて集骨に向かうと、殆ど灰にならず小さい骨壺一杯の御骨が残っていた。本当に有り難い。

集骨を終え斎場に戻ると丁寧に迎え入れて頂き、改めてお祓いをして頂いた。

斎場を引き払い、自宅に戻ると部屋の隅に新しい板で出来た棚が用意されていた。大家さんの旦那さんが用意していてくれたそうだ。そこまで気が回らなかったので、本当に有り難かった。

夜は、病み上がりの妻に息子を託して私が勤めているホテルに行き温泉で疲れを癒して貰い、借家で食事を行った。

あの日から

夏の日差しも少なくなり、秋の気配が強くなった10月13日の日曜日。引き寄せで、お墓で節目の祭事を行った。

この日に合わせて妻の体調を調整して、近所の墓地まで車いすで移動をした。庭先では飼い犬が、「なんか懐かしい匂い?」と熱心に妻の匂いを嗅いでいた。

地元神社の神主も合流し、式が始まると陰っていた太陽が顔を出し始め、少し暑いぐらいだった。

妻も参拝出来る様にバリアフリー仕様に改修したお墓にお参りをして、次の年も一緒にお参り出来る様に見守って下さいとお願いをして、墓地を後にした。

自宅に帰る途中で販売しているソフトクリームを2人で食べた。

心の声

・御骨をお墓に納める決意が出来たのは、50日祭(佛式の49日)直前。

・ついでに散歩もしたら、日焼けして顔や腕が少し赤くなっていた。

・うちの県には天孫降臨の地や東方遠征出発の地、海幸彦・山幸彦の舞台など神話がゴロゴロ。

介護剃毛

相互関係の為にも

妻のベット上で過ごす時間が長くなり、いわゆる【下の世話】が日常的になり始めたのとほぼ同時に、剃毛処理を始めました。

あまり他の方にこちらから「うちは介護剃毛をしているんだよね」と話す事は無いのでご存知なのは、私以外はほんの一部です。

初見の訪問介護さんや担当看護師さんも驚かれる事が多かったですが、現在では『将来、介護される様になった時の為に』という意味で、VIO脱毛を行う事が ” 密かなブーム ” になっているそうです。(個人的には聞いた事はありませんが)

但し、脱毛と剃毛では感染症などのリスクが全然違います。ましてや、素人が行う施術だと尚更です。

幸いにも約10年間月2回程度の処理を行っていますが、不随意運動による怪我や感染症を起こす事はありませんでした。

始めたきっかけ

当初は普通の下着にパットを入れている程度でしたが、症状の進行に伴ってパンツ式のオムツに変わり、そして全介助になってからはテープ式のオムツに移り替わりました。

そのパンツ式時代に自分だけでは処理が上手く出来なくなって来て、手を貸す様になりました。

そんな中で、不随意運動がある状態で一定時間横を向いたりオムツの中を触らない様にケアをするのは息が合わず時間が掛かっていました。

そこで、少しでもケアを行う時間を短縮する為に【介護剃毛】を始めました。

試行錯誤

始めた当初は段取りが判らず、連携室の方に盲腸施術時に行う・行っていた処置を参考に色々と試してみました。

その中で現在定着している方法は、【洗顔用の泡だて器】と【女性用カミソリ】を使用する方法です。

シェービングクリームなども市販されているのですが、個人的にはセボーテ様が販売されている【美肌ホイップクリーマー】を使用したボディソープの泡が一番扱い易く処理が楽です。

本来は洗顔用なのでしょうが、お湯とボディープや洗顔料を適量入れて泡立て棒を上下させるだけでしっかりとした泡が出来るので重宝しています。

カミソリも種類が多く良く判りませんが、一番扱い易かったのはSchick様が販売されている【ハイドロシルク】でした。

もしかしたらもっと良い商品があるのかも知れませんが、これで怪我なく処置出来ているので、問題無いと思っています。

処置を始めて

結果としては、オムツの処理に掛かる時間が格段に減り、横を向いている時間や拘束を解いている時間が減ったので怪我や汚染のリスクが確実に減りました。

但し、尊厳的な問題もあるので、本人に意志確認が出来るのであれば説明を行う必要があると考えています。

現在の妻は、意思確認・意志表示がかなり難しい状態になっていますが、今でも処置を行う前には必ず説明と意思確認を行っています。

また、怪我をしてしまうと後々の処置が難しい箇所でもありますので、事前にご相談を行っていた方が良いと考えます。

心の声

・「旦那さん、そういう趣味があるんですか?」と聞いた、あの人。その思考が怖いです。深くは聞かないけど。

・足の不随意運動が出ていた時期は少し間隔を空けていた。

・楽なのは本当に楽。おしり拭きなども枚数を使わなくて済むし。

姉妹で発病 確率2/2

先に発症した妹(妻)

妻が発症していると宣告されてから4年後、義父の元に義姉夫婦から病院に行こうと思っていると連絡があったそうだ。

その頃の妻は、付き添いがあれば自力歩行が出来ていてが、手足の不随意運動は知識が無い人でもハッキリ分かるほど出ていた。

義姉の旦那(義兄)さんは妻の症状を見る事を極端に嫌がり、義姉を連れて自宅に様子見に来てくれた時も部屋に入らず、屋外で煙草を蒸かしている様な方だった。

そんな義兄からの連絡に驚き、義父は義姉夫婦の元に行って話を聞いたらしい。

遺伝子診断

如何やら、妻の病気を知った時から義兄は何かにつけて発症を警戒していた節があった様だ。その為、私や義父以上に初期症状を見逃さなかったとも言える。

義父と相談を行った義姉夫婦は、当時の住まいから一番近い大学病院を受診して今後の事を決める為にも遺伝病を発症している母と妹の肉親と言う事で遺伝子診断を受ける事を決めたらしい。

暫くして、義姉夫婦から義父に検査結果が出たのでお話ししたいと連絡があったらしい。義姉夫婦の家に義父と義兄の両親が揃ってから結果の説明が行われたらしい。

その結果は【陽性】でその時に遺伝病だと知らされた義兄の両親はとても驚いたそうだ。

陽性の結果は出たが、現状では日常生活には支障が出ないレベルであったので現状では特別治療を始めるという話は無かったそうだ。

残念

ここまで読んで頂いてお判りの通り、先に付き添いや検査・治療を始めていた私たち夫婦には何も連絡はありませんでした。

様子見に来られた時はまだ、どこか他人事の様な感じだった。しかし、疑っている事や今後どの様になって行くのかも聞かれる事は無かった。

義姉の結果を義父を通して知った時、義父に今後役立ちそうな資料をお渡しした。それまで、私の所に嫁いだから口を出したく無いと一定の距離を取っていたが、これを機会に病気の事を学んで頂こうと思ったからだ。

そして、義父に知識や解決の糸口を探す方法が身に付いていれば直接連絡の無い義兄にも伝わるのではと期待していた。

数ヶ月後、開封された形跡が無い資料を手渡されながら「忙しくて読む間が無い」「時間が無いから会いに行っていない」と言われた。

妻が帰郷先に実家を選ばなかった辺りから何となく感じていた違和感が全部繋がった。

ヘタに口を出すと

2019年、現在。

風の噂や義兄や義父以外からの情報収集では、早い段階の診断も功を奏さず、現在では妻の同じレベルでケアを考えなければいけない程進行しているらしい。

義兄が元々病院嫌いで、医師や患者支援、保健所、福祉課の方々との環境作りが上手く行かず、症状が出始めた後もビタミン剤の処方以外は認めていなかったそうだ。

また、日常用具の相談なども上手く行かず転倒などで何度も入院されたり介護ベットの概念が無く、暫くは不随意運動で怪我をしない様にと子供用のビニールプールに寝かされていたらしい。

それを工夫をしていると言って話をしていた義父を叱り、パソコンで用具の説明を行ったが携わっている実感が無いのか、効果がまるで無かった。

しかし、ヘタに口を出すと義兄が手を離される危険があり、義父と私の現状では受け入れや対応が難しいので、最低限活用すべき制度を伝える様にお願いをした。

年数を重ねて、義兄も周囲に頼れる様になったらしい。現在では、週5日は訪問介助を活用して安定したケアと用具選定が出来ているそうです。

数年前、偶然外来受診にヘルパーさんと来られている義姉に遭遇しました。本当はあまりよく無い事なのでしょうが、ヘルパーさん自身も病気の情報を欲して居られたので、以降はなるべく受診日を合せて義兄には知らせない形で姉妹を会わせている。

因みに、車で20分ぐらいの所に住む義父が今年妻の所へ来たのは、誕生日の一回だけです。(アポなしで。入浴から上がると妻のベットの脇に居てビックリした。)

心の声

・姉の話しに託けて、色々とディスってるなぁ。

・症状が出ていないからこそ、経過観察が大事。

・子供用ビニールプールが介護ベット替わり。発想 ” は ” 凄い。

温度と湿度の調整

同じ部屋でも

妻がベット生活になってから気が付いたのですが、介護を行うには手狭に感じる部屋でも意外と観測場所によって温度と湿度が違う様です。

同じ日の同じ時間で撮影した室温ですが、時計を兼ねている温湿度計は天井に近い床から2mぐらいの高さに設置しています。それとは別に、低床ベットの高さに合わせた床から40cmぐらいの高さにもう1台設置しています。

介護を始めた当初はあまり気にしていなかったのですが、エアコンや照明を遠隔操作で行うスマートホームを活用する様になり、センサーを設置する高さやエアコンからの距離で生じる温度差を気にする様になりました。

ベットがある床に近い部屋の中心付近と外壁に近く天井付近では秋から冬に傾いてきた今頃の時期でも2~3℃は違い、エアコンの温度管理は低床ベットに近い物を基準にして管理を行っています。

夏場は付き添う側も警戒して、始めから掛け布団も薄手な物を使用していたりしますが、逆に冬場は風邪を引かない様に厚手な物を使用して低温設定ながら暖房器具を使用していると昼間の短時間だけ室温が上がってしまい、【篭もり熱】を起こしてしまいます。

しかし、近年では夏場でも予想以上に早い時間帯から外気温上がり始めてしまい、タイマーを入れるタイミングを読み間違えてしまい、何度もこの【篭もり熱】で辛い思いをさせてしまいました。

室温と布団の中

1日中布団の中に寝ていると室温だけでなく本人の放熱でも熱が籠ってしまいます。

普通の方だと水分補給やトイレに行かれる際に布団を開けたり、暑くなってきたら自分で布団を捲り上げて熱を逃がしたりしていますが、妻の様に上記の動作が出来ない場合は意識しなければならないと知りました。

そこで使用し始めたのが、外部センサーが付いている温度計です。

これだと外部センサーを布団の中に入れて置いて、室温と布団内の温度を確認する事が出来て重宝しています。

見守りだけの管理に限界を感じて

以前、スマートホームを導入してAIを使った見守りを始めた事をご紹介させて頂きました。残念ながら現在使用している物では室内の湿度を感知して加湿器を起動させるという事は出来ませんが、夏場同様、温度管理は任せて行きたいと考えています。

加湿に関しては、昨シーズンから静音でお手入れが簡単な加熱超音波式の加湿器を活用しています。そして、気分転換を兼ねてアロマが使用出来る物にしました。

心の声

・加湿を兼ねて熱帯魚を再開したい。

・体型差があって温度戦争が起きる。

・ポカリと氷枕は年中確保。

子供について~子供と出会って思う事~

別れを前提にした出会い

朝、目を覚まして意外に冷静な自分に気付く。いつも以上に妻を起こさない様にベットを下りて車に積み込んだ荷物の確認と補充を1人で行う。

食事の指定は無かったけど、念の為に病院に着いてから食べようかななどとも考えていた。

部屋に戻り、妻の肩を揺すりながらゆっくりと起こす。挨拶を交わしながら今の状態が判るか確認をする。お腹を摩りながら頷く妻を抱いて「子供に会いにいこうか」と声を掛けて車へ促した。

車の傍には、ゴソゴソ動き始めた私たちの気配を感じた大家さんが泣きながら立って様子を伺っていた。大家さんに声を掛けると妻を抱きしめ、それに妻はまた泣き出した。

2人が会話をしている間に妻が座る助手席のシートを倒し、ゆっくり出来る体勢にして車を走らせた。

瞬く間に

病院に着くとそのまま病棟に案内され、担当医との話しをしながら検査を行った。

事前に連絡をして頂いていた検査と今回の検査を踏まえ、やはりお腹の中で亡くなっていると告げられた。

前回からの間隔を考慮し、現状の了解確認が行われてから直ぐに陣痛促進剤を投与を始めた。この時初めて知ったが、死産であっても切開ではなく、極力出産の形を取るらしい。

その処置を行いながら私は別室に呼ばれ、説明を受ける。「お子さんは妊娠12週を超えているので、役所に届け出を出さなければなりません。」「届け出にはお子さんの名前を記載しなければなりませんので、短い時間ですが考えて上げて下さい。」

説明を受けながら火葬が必要だと聞いた時に説明を中断して出発前の私の父親に電話で連絡を取った。火葬を行う必要だと伝え、近所の建具屋さんに両手で持てるぐらいの棺桶を作って来てくれる様にお願いをして電話を切った。

引き続き流れの説明を受けたが、その間も子供の名前を考えていて居た。要するに、妻の陣痛待ちとしか記憶していない。

病室に戻り私の口からも現状を説明すると感心を持ったのはやはり名前の件だった。

子供も早く出たがって居たのか、妻も早く出して上げたかったのか薬の効きが良く、両家の親が到着すると同時に分娩室に入った。それぞれの親に現状と今後の説明を行いながらも子供の名前を考えていた。

程なくして立ち会って頂いた担当医が残念そうな顔で出てきた。妻の状態を確認すると、安定はしているが暫くは分娩室で点滴を行うと言う事だったので、許可を頂いて付き添う事にした。

あなたの名前は

分娩室に入る流れで強く希望して子供を見せて頂いた。その時に、名前が決まった。

妻の手を握りながら点滴が落ちる様子を見る妻は分娩室の天井を見上げていた。沈黙の後、子供に会って来たと話しをした。妻は、「怖くて、申し訳無くて会えないから見てくれてありがとう」と言ってくれた。

一言二言話しをして、子供の名前を『秋人(あきひと)』と決めた事を告げた。

秋人=秋に人として私たちの子供で居てくれてありがとう。

名前の意味を告げると良い名前だと言ってくれたので、秋人の手続きを進める事にした。

ただ、秋人にはもう一つの意味がある。妻には今でも最初の意味しか伝えて居ない。

秋人=秋に人並みの人生を歩かせる事が出来なくてごめんなさい。

これは、妻に直接言う事では無いと今でも思っている。

心の声

・経験しないと判らない制度が多い。

・県内外から注文がある建具屋さん。その方が作る棺桶。

エンシュアとオイルヒーター

心地よい暖かさ

妻のハンチントン病が進行し、ベットでの生活が主になって来た頃からコタツを押し入れから出す事も無くなりました。

自宅介護を継続するに当たり、すぐに温まるファンヒーターやエアコンの暖房を使用していました。しかし、ファンヒーターは不完全燃焼のリスクと火傷や火事のリスクが高いのであまり使用しませんでした。また、エアコンのは温風が直接当たる位置にしかベットが設置出来なかったので、気持ち的にはなるべく使いたくありませんでした。

そこで、使い出したのがオイルヒーターでした。

オイルヒーターは、ファンヒーターの様に火を燃焼させる訳ではないので、加熱部分を子供が触っても火傷しない様な熱さですし、不完全燃焼のリスクも無く電気系統の故障以外は火災のリスクも小さいです。

また、エアコンの様に温風が出る訳でも無く、縁側で日向ぼっこをする様に徐々に空気を暖めてくれるので空気が汚れるリスクも低そうでした。

ただ、寒いからと言って電源を入れてもすぐに部屋が暖まる訳ではないので、秋冬の間は継続して使用しなければいけない欠点はあります。勿論、エコモードなどもありますが電気代は使用相当分掛かります。

最新モデル。こういう24時間タイマー付きが欲しかった

非推奨&自己責任

このオイルヒーターを使用する様になって、少しだけ楽になった事があります。

冬場になると缶に入っているエンシュアは冷えてしまい、そのまま注入してしまうと冷たさで下痢を起こしてしまう可能性があります。また、お湯で割って温めようとすると水分の継続が面倒になってしまいます。

そこで、私は料理で使うボウルや口腔ケアで使ううがい受けなどをにお湯を張り、そこに注入するエンシュアを沈めて湯煎で時間を掛けて温めていました。

この湯煎の手間を解消する方法としてオイルヒーターを活用しています。

あくまでも個人的な使い方なので題名の通り『非推奨』ではあります。

使い方は簡単で、就寝前にオイルヒーターのフィン(温かくなる部分)の上に翌日使用するエンシュアを並べる。以上です。

先程も記載した通り、オイルヒーターは冷たい部屋を一から暖めるのは苦手なので、就寝中も点けておくかタイマーを使用して起床より1~2時間前から点けておく必要があります。

なので、その時間を利用して冷たくなったエンシュアをオイルヒーターの放熱を使って温めています。

現在使用しているオイルヒーターはフィンが露出しているタイプなのでこのフィンの間にエンシュア缶がベストフィットしています。また、オイルヒーターの放熱は徐々に空気を暖めるものなので、就寝前に置いて翌日の夕方までの長時間放置する事になっても熱くなり過ぎず、設定温度25~27℃で丸一日置いておいても自動販売機の缶コーヒーよりぬるい位です。

このぐらいの温度ならオイルヒーターから直接取ってそのまま注入が出来ますので、楽をさせて貰っています。

同じ味ばかりだと

妻の主食(?)になっているエンシュアですが、意外と味がバラエティに富んでいます。

使用を始めた1ヶ月目はバニラ味だけを使用していたのですが、私がその匂いに負けてしまいました。その次の月からはメロン味に変更していただいて匂い問題は乗り切りました。

暫くして、どんな物なのか興味が出てきたので試しに飲んでみたのですが以外に飲みやすかったです。しかし、これを毎日は飽きるなーと思い、薬局にお願いして処方箋上はメロン単品になっている所をコーヒー味とバナナ味を加えて3等分にして頂いています。

口に入れる訳ではないので、舌で味覚を感じません。しかし、ゲップなどで鼻に抜ける香りはあるので、やっぱり飽きると思います。

その3等分した味を私の気分で色々と組み替えて注入しています。たまに意表をついて朝昼晩バナナ味なんて事や2日ぐらいコーヒー味無しなど変化を付けて食事で遊んでいます。

心の声

・凍えた日は、帰宅してそのままオイルヒーターを抱きしめたくなる。

・缶が触れている分、熱効率は落ちているんだろうなぁ。

・資料集めで見つけたエンシュアの一覧表。黒糖味と妻が好きだった抹茶味が気になる。次回受診時に打診してみよう。

お互いの体調を整えてドライブ

本格的に寒くなる前に

春夏秋冬の節目に行っている妻とのドライブ。ハンチントン病が進行し続けている現在も、それは続けています。

私は、新しい刺激と慣れ親しんだ刺激。生きる為には両方とも必要だと考えています。新しい物を探すのも慣れ親しんだ物を思い出すのも私は楽しいです。

今回は、鹿児島県鹿屋市のかのやばら園で開催されていた【かのやばら祭り2019秋】にお伺いして来ました。

また、鹿児島県東部に行く際には必ず足を伸ばしている鹿児島県曽於市末吉町で地鶏の炭火焼きを提供されている愛の里さんにお伺いしようと考えていました。

どちらも車イスで利用出来るのですが、寒さを考えると今年のラストチャンスかな?とスケジュール調整を行っていました。

このドライブを行う為に、3日前から妻へ「ドライブに行くからね」と声を掛け始め、妻自身が『どこかに連れて行かれるから自分で自分を守れる様にしっかりしなきゃ!』と私だけでなく妻にも体調管理を促していました。(ホントに”連れて行かれる”と思われていたらもう何処にも行けない(笑))

10月27日の朝、肌寒い部屋の空気に負けそうになりながら隣のベットに寝ている妻の手を握り、発熱をしていない事を確かめて身支度を始めました。

妻の調子と私の調子を確認

オムツを交換する流れで介護浴衣をひん剥いて、昼間の暑さを警戒した半袖のシャツとスカート、靴下を履かせて薬とエンシュアを注入した。落ち着かせている間に、助手席周りをクッションを敷き詰めて暖房を効かせておきます。

前日に再確認していた非常持ち出し袋に携帯用のはさみと吸い口、保険証類一式を追加して、車に投げ込み私の着替えも早々に済ませました。いい感じに妻が微睡始めたのを確認してから介護ベットからお姫様抱っこで車イスに移乗させます。

この時の私の体調でそのままベットに戻るか車に移動するか決まるのですが、問題無さそうだったので車に移乗させて午前9時30分に出発しました。

念の為に、コルセットは積んでおきましたけど。

せせらぎと炭火の音

このままかのやばら園に行っても混んでいそうだったので、先に昼食を済ませてから行く事にしました。

介護ベットでは完全に入眠している感じですが、少し開けた風が冷たいのか眠る事も体調を壊す事も無く地鶏のお店:愛の里さんに到着しました。

この愛の里さんは、妻が自分で歩いていた頃から通い始め、車いすになってからもテラスの車いすでも出入りが出来る『いつもの席』をお借りして利用を続けさせて頂いています。

妻を車に残して先に注文と席の確保を行い、妻を迎えに行く。今までと同じ事が出来る物を見つけてそれだけで嬉しくなりました。

何年も変えない注文内容。焼き鳥と鳥なんこつ、鳥刺し、味噌炊き、おむつび。

これは妻とのデートなので、妻だけエンシュア。ではなく、同じ物を携帯用のはさみとスプーンを使って様子を見ながら食べて行きます。

日頃から少量でも口から食べる様にしているので、食べなれた味はすんなり喉を通る様でした。

因みに、ご飯が引っ掛かりにくくする為に熱々に焼いた焼き鳥をおむすびが入っているお皿にIN。更に、鳥の肉汁と脂を纏わせたご飯を少しづつ食べて貰っています。私が食べると「芋焼酎、お湯割りで!!」と叫びたくなりますが、まだ目的の半分も達していないので我慢。

お店がお昼時で混み始めた頃にお会計を済ませ、「また3月頃に来ますね」と声を掛けて後にしました。来春も一緒に来たいと思います。

薔薇の香りが混ざった寒風

お昼の服薬も済ませ、更に車を走らせてかのやばら園を目指しました。1時間以上車を走らせていたのですが、移動中はずっと起きていて入眠が始まったのはばら園まであと10分の所でした。

係の方に車イスでも乗降車出来るスペースに案内して頂き、降りる準備を始めました。既に入眠が始まっていたので、普通だとそっとしておくのですが、そこは家族介護。折角遠方から遥々来たのに勿体ないと容赦なくお姫様抱っこで車イスに移乗させ散策を始めました。

お昼過ぎだったのですが、薄曇りが続いていて小高い山の上に作られたばら園は肌寒かったです。妻には袖のあるブランケットを羽織らせて入場門を潜りました。

障害者手帳を活用させて頂いて園内に入り、入眠しているを引き回して散策を行いした。色とりどりの薔薇が咲いていて園内中が薔薇の香りに包まれていました。私が見たかったバチカン市国にも植えられている『ヨハネ・パウロ2世』と言う種類は何とか2輪だけ咲いていてくれました。

園の奥へ行くにつれて匂いが気になり出したのか妻も目覚め始め、妻も愛でる事が出来た様です。

時間が経つにつれて風が強くなってきたので1時間ぐらいで車に戻り、家路に着きました。途中で、子供の頃から食べていたタコ焼き&お饅頭屋さんを見つけたのでついつい買ってしまいました。

帰路と帰宅後

帰路の妻は流石に疲れたのか終始眠っていました。ただ、大きな体調変化はなく、無事に自宅へ戻る事が出来ました。

帰宅して着替えなどを行った後は痰の吹き出しが多く、軽い風邪を引いた様な感じでしたが、翌朝にはそれも納まってくれました。

何気ない事の様ですが、2人で新しい時間を作る・今までと同じ事を行えると言う事はとても幸せな事です。病状の進行によって形ややり方は変わるかも知れませんが、出来る限り続けて【今日】を積み重ねて行きたいです。

心の声

・2カ月ぶりに行ったら「久しぶり」と言われた。ハマっていた時は月に2~3回。久しぶりかな。

・写真を貼り付ける勢いで2人の自撮り写真まで貼る所だった。

・安全確保の為、勿論両手は終始拘束。

・もういい加減、衣替えをしないとダメだな。

・可能であれば、次は宮崎県新富町の新田原基地の航空祭へ。