日本ハンチントン病ネットワークとの出会い

自宅に帰った後は意識して病気の話しを切り出さず、彼女からも特に話しをせず録画していた何時も観ていた番組を観て、何時も通りの時間に眠りに着いた。

翌日、暗い情報しかないので不安に思っている事はノートに書き留め、医師に質問する事を纏める時間にして次回の通院日までは病気の事は話さない事にした。彼女がテレビを見ながらも色々と書き始めているのは知っていたので、私も医師とお話しが出来る様に勉強しておこうと仕事の休憩中に会社のパソコンを使って調べ始めた。

そんな中、ハンチントン病ネットワーク(JHDN)という家族会のホームページを見つけた。病院以外に自分らが置かれている状況を伝える事にかなりの抵抗があったが、匿名で現状の説明と家族会から見る病気の事を教えて欲しいとメールで問いかけをさせて頂いた。

正直、稀な病気である事を強調され、周りやメディアなどでも聞く事がない病名に孤立感を深めていた中で、同じ境遇の方々に出会えた事は嬉しかった。

JHDNからはすぐにご返信を頂けた。当時のパソコンからのデータ移行が上手く出来ていなかったのでメールのやりとりは残っていないが、とても温かく心強い内容だった事は覚えている。医師の説明やインターネットからの情報ではなく、実際の経験を重ねて来た方や経験をされていた方のご意見は、決して明るいものだけではなく病気がもたらす偏見や誤解、想像以上の苦悩を感じる事が出来た。しかし、それ以上にハンチントン病と真正面から向き合う勇気を頂けた。

通院日の朝。病院までの道中で、彼女にJHDNの話しをした。

別の病院(セカンドオピニオン)を受診

彼女が診断を受けてた話を聞いても聞き慣れない病名に受け入れる事が出来ず、同棲していた家から30分ぐらいの所にあった県立の医療センターを一緒に受診する事にした。

彼女の父親から渡された診断書を見て頂いたが、ご担当頂いた医師も診察経験が無い病気の為、問診では診断書以上の事は回答出来ないと大学病院の受診を勧めて頂いた。そこで初めて、医療従事者でも稀な病気だと言う事を認識した。先生との問診後、病院間の間を取り持って頂ける連携室でもご相談させて頂き、事前に情報を伝えて頂いて大学病院での予約を楽にして頂けた。後日、大学病院を受診すると過去にハンチントン病を診察と治療・経過観察をされた事がある医師がご対応頂けた。

当時のインターネットには難病などのコアな情報は少なく、知らない事や判らない事が不安の原因でした。しかし、外来受診にも関わらず時間を掛けてご説明を受ける事が出来たので不安は少しずつ薄くなっていきました。が、同時に治療が難しい事や病状が進行していく事で起きるであろう将来の可能性を目の当たりにして恐ろしくもありました。

この時に受けた注意点として、彼女の父親が私に渡した診断書では父親が最初の病院で既に他界した母親の経緯を踏まえて相談したので、ハンチントン病という病名が出ているだけだと説明を受けた。その為、母親から本当に同じ病気が遺伝して現状の症状が出ているのかを確定する事が出来る遺伝子診断を教えて頂いた。もし、その遺伝子診断で確定が出なければ、別の病気などの特定にも活用出来るという事だった。一度に説明を受けても頭も気持ちも容量が持たないので、取りあえず次回受診日に遺伝カウンセリングの方にご説明をお願いする段取りをして帰路についた。

病院から出ると、少し食欲が戻った妻とお蕎麦を食べて帰える事にした。

ハンチントン病との出会い

2007年の夏、高校の同級生だった彼女と同棲していた家に彼女の父親が遊びに来た。1年振り会う彼女の異変を笑顔の中にしっかりと感じ取られていた。

私が癖だと思っていた彼女の身体の動きと滑舌の悪さに心当たりがあったらしく、一時帰宅させて妻の実家がある地域の大きな病院を受診する事になった。

彼女の家は父子家庭で、母親は彼女が中学生の時に他界され、その時には既に離婚されていて、母親との記憶は殆ど無いそうだ。

交際を始めた頃、彼女の父親からは母親の実家があった水俣の公害病:水俣病で亡くなったと聞かされた。母親の実家に挨拶をしに行った際には、お墓と併せて水俣病記念館を訪れて、病気を目の当たりにするのと同時に彼女を健康に産んでくれた事に感謝をした。

4日後、同棲する家に2人が戻ってくると唐突に聞き慣れない『ハンチントン病』と言う病名が記載されている意見書を見せられる。正直、ハンチントンと言う響きにニヤリとしてしまうが、彼女の母親が水俣病では無く、このハンチントン病で亡くなった事、親から遺伝する病気であり母親と同じ道を辿るなら将来は寝たきりになると説明された。

受け入れ体勢が出来て居ない所に、様々な情報を浴びせられたので、その日は父親にはご帰宅頂き、彼女にどんな病院ではどんな経緯だったのか、今はどんな気持ちなのかを夜遅くまで話しを聞いた。

話しを聞きながら私は考えが纏まる所か、現実感を抱く事が全く出来なかった。

 

 

 

とりあえず・・・

介護者ではなく介助者にしている意味。

交際中に病気を発病し、病気を勉強した上で辿り着いた事は、どんなにそばに居ても「闘病生活は本人次第」だという考え。

福祉関係の専門書などでは定義付けをされていたりしますが、寝たきりになってエアコンのボタン一つ押せなくなった今でもこの考えを変えずに、本人が

『私と一緒に』生きる意志があればお手伝いします = 介 助 = 結婚生活 

と位置付けています。

なので、介護者ではなく介助者。あんまり使っている人はいないから何だか特別感もあるし。文章にするとなんだかそれっぽい。

特に書く事は決めていないので、暫くは過去Twitterの転載かな。